昭和16年12月24日〜20年9月30日
7冊のノートに書き継がれている。松太郎はこの日記の最初は東京都中野区上町44番地の田村紀伊方に同居していたが、昭和18年3月18日に入籍し、同時に紀伊の養子・達也をも入籍した。そして昭和19年4月13日に群馬県中里村に疎開して昭和24年にそこで86年の生涯を閉じた。
(1)第1分冊中野時代…昭和16年12月24日〜17年9月30日
10.5×7.5
小さなノート
昭和17年1月十四日、齢八十を迎えて感に堪えないと感懐を述べているが、余命は期すべからず半七工場の将来についての相談をなすことを述べ、二十日に会社幹部に図っている。その中に「三吉の去就」とあるのは実子三吉の事か。同じく19日には富本憲吉から染付の壷が届けられた。柳宗悦、浜田庄司等と共に富本憲吉も古い知己。4月四日には丸山晩霞の葬儀に吉祥寺迄赴いている。8月1日には岩橋章山から宣戦大詔を全紙に書いたものを送られている。
(2)第2分冊中野時代…昭和17年10月1日〜18年4月23日
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2分冊から6分冊までは規格版のノートを見開きで縦書きに使っている。17年10月七日、会社の幹部本田が給与250円を持参した。15日、前田一歩園の前田正次を訪問、17日には中川一政が訪ねてきた。11月三日には岩波書店三十周年の晩餐会に出席。11月にはまた『水彩画家丸山晩霞』を送られ、日比谷松本楼での大下春子を称える会に参会。二十日には「達也、母にたてつく 不埒なり」またこの後も時々達也の成績が振るわないことを「暗然たり」と嘆いている。あとは中野の家を直したり、猫の心配をしたり、手紙を書き手紙を受け、小杉放庵の夢を細部にわたって日記で再現するなどしている。
(3)第3分冊中野時代…昭和18年4月24日〜18年9月10日
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18年5月2日に三吉の急死を知らされて茫然としたとあるが、三吉は明治41年10月12日生まれの恐らく実子で、半七工場に勤務していた。日曜日にテニスをしていて心臓まひで亡くなった。松太郎の子供が何人いたかは不明だが、日記に出てくる達也は養子で昭和4年生まれ、元吉は明治31年生まれで4男、ただ昭和2年に大病を患い家督を継ぐことができない旨を役所に出している。中野時代は近くの津田青楓や中川一政とよく行き来をしている。また中村不折の死去をラジオで知り、弔問に出かけている。6月22日の記録ではこの時点の松太郎の貯蓄は3千円余であったらしい。7月七日には工場が類焼にあって一部焼けたが大きな被害ではなかった。7月22日にはまた夢の記録がある。8月11日には三色版界の統合について便利堂、審美書院と話し合いを持った。一四日には斎藤茂吉から歌が届いている。
(4)第4分冊中野時代…昭和18年9月1日〜18年12月31日
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9月24日に豪徳寺に墓参し、日下部家も詣っている。同日中川一政を訪問するも資生堂の個展で不在。ただ新築の家の様子が記されていて、床の間に寂巖が掛かり、画室では金農の絵を見ている。27日にはまた夢の記。11月に入って盛んに漢詩を作って揮毫し多くの知友に手紙を書いているが、これは中野への転居通知かもしれず、9日に40人、10日に38人、11日に百人余という具合。これを27日まで続けている。12月四日には前田家から墓の字や一歩園の標識を頼まれていいる。12月15日には岩波書店30周年の参会お礼として富本憲吉の染付湯呑(処高思低の文字入 同品ではないが今号に掲載)を送られている。
(5)第5分冊中野時代…昭和19年1月1日〜19年4月12日
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中野時代の最後の日記。1月17日に浜田庄司から初窯の湯呑を送るという知らせがあった。18日には長い間コンビを組んだ一増印刷から廃業の知らせが届いている。2月8日には藤井達吉から筆草7本が届いたというが、何に使ったものか。25日には半七工場の疎開を話し合った。19年2月26日には紀伊が疎開先として前橋方面を考え視察に出かけたが、3月七日には借家が決まった。翌八日には紀伊と共に半七工場に行ってリーチの茶碗2個などを家に持ち帰った。一四日には岩波茂雄が来訪して梨や鶏卵をもたらした。18日には紀伊と達也を田中家に迎える書類を中野区役所に提出、それを仏壇に報告し、また疎開の荷物の整理に取り掛かった。津田青楓や中川一政の疎開の通知も届くようになった。そして昭和19年4月13日に松太郎一家(松太郎、紀伊、達也)は群馬県新里村に引越しした。
(6)第6分冊群馬県新里村時代…昭和19年4月13日〜19年6月30日
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昭和19年4月13日に松太郎は群馬県勢多郡新里村武井に転居した。中野→上野→高崎からバスで前橋へ、そこから上毛電鉄で武井停車場へ。そこからしばし歩いてようやく借家に着いた。大家は峰岸と言った。そこの家賃は月50円だが、中野の家を借家に出して百円余があまり余裕の生活と言える。朝は赤城山を見ながら散歩し漢詩を作り揮毫する穏やかな日々である。また近くには鶴ケ谷温泉という鉱泉があって紀伊と共に、また来客があれば案内している。転居の発信を数多くこなして飽きることがない様子である。
(7)第7分冊群馬県新里村時代…昭和19年7月1日〜20年9月30日
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ハードカバーの「昭和17年当用日記」を代用して使っている。引き続き膨大な転居通知を自筆でこなす毎日で、受信も残さず記録している。18年7月18日には清水良雄から絵入の手紙が届いた。同日野口小蕙から甥の野口謙蔵(洋画家)の死を知らせる葉書が届いている。また同夜サイパン島将兵全滅の報を聞いて「夜ねむる能わず」と記す。8月25日には三度夢の詳細を述べている。20年3月28日には達也が桐生中学を卒業した。8月15日敗戦の日、天皇陛下の昼の放送を聞いて「憤激憤慨」夜また聞いて「涙禁ずる能わず」で朝まで眠れなかった。だが茫然自失の状態は長くはなく、翌16日から盛んに手紙を書いている。散歩や入浴も変わることなく続けている。